理趣経


理趣経ってのは、お大師さんが遣唐使として長安からもちかえってきたものだそうで、密教の根底をなす経典だそうだ。



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男女交合の妙なる恍惚は、清浄なる菩薩の境地である。
欲望が矢の飛ぶように速く激しく働くのも、清浄なる菩薩の境地である。
男女の触れ合いも、清浄なる菩薩の境地である。
異性を愛し、かたく抱き合うのも、清浄なる菩薩の境地である。
男女が抱き合って満足し、すべてに自由、すべての主、天にも登るような心持ちになるのも、清浄なる菩薩の境地である。
欲心を持って異性を見ることも、清浄なる菩薩の境地である。
男女交合して、悦なる快感を味わうことも、清浄なる菩薩の境地である。
男女の愛も、清浄なる菩薩の境地である。
自慢の心も、清浄なる菩薩の境地である。
ものを飾って喜ぶのも、清浄なる菩薩の境地である。
思うにまかせて、心が喜ぶことも、清浄なる菩薩の境地である。
満ち足りて、心が輝くことも、清浄なる菩薩の境地である。
身体の楽も、清浄なる菩薩の境地である。
目の当たりにする色も、清浄なる菩薩の境地である。
耳にするもの音も、清浄なる菩薩の境地である。
この世の香りも、清浄なる菩薩の境地である。
口にする味も、清浄なる菩薩の境地である。

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うーん。グレートだぜ。


つーても、これだけパッと読んだら、えれえ生臭くてエロっぽいお経だなぁと感じるかもしれないが*1
本来言わんとすることする本質はただひとつ、宇宙はグレートフルに美しく、人間のその本質や営みは、愛情も愛欲も、そこから産まれる嫉妬や憎悪も本来自然なものであり、なにも卑下することもないほどに素晴らしいものなんですよってな賛歌なのである。 



と、思った。



釈迦の原始仏教と対比してみる。


釈迦の原始仏教は、まず、それら現世のしがらみ、愛情、愛欲、嫉妬、憎悪から抜け出すための修行を行い、それらに打ち勝ち、それらを打ち捨てて、はじめて“解脱”の道を手に入れることができるとされる。しかも、小乗仏教なので、解脱できるのはあくまで自分一人。



そんなのムリムリ。
だってみんな人間だもの。そりゃすたれるよなぁ、釈迦仏教。
と思った。


いや、オラに経や宗派の優越を云々する意図があるワケではなく、ただね、単純にね。そのー、当時の(奈良時代末期)の人々が、閉塞的である種ストイックに解脱を求める奈良仏教にあきあきしてるところに、こんな思想が入ってきちゃあねぇ、そりゃーあーた、ウッキャー!理趣経マンセー!!生きてるってスッバラチー!ブラボー!!
空海!あんた最高だよ!


ってなるかと。

*1:実際、理趣経のそういう俗面だけにとらわれ、立川真言流が産まれたらしい