Harryこと寅王、此処に眠る

2004年6月14日 月曜日

Harryこと寅王が29歳の若さでこの世を去りました。

彼の冥福を祈ると共に、彼の一生が幸多いものであった事を願ってやみません。


このサイトは彼の生前の軌跡として、しばらくの間はこのまま遺しておこうと思います。
彼が日々、何を考え、何を感じ、どう生きてきたのかを、少しでも感じ取っていただければ幸いです。

また、この事実をこのサイトで初めて知った方には連絡が行き届かず大変申し訳ありませんでした。
最後に、より詳しい情報が欲しいという方はお手数ですが、下記のアドレスまでお問い合わせください。

clockworkorange@melu.jp

Tsuka

トルコのうっかりさんたちはチャックが全開だった。


ケマル パシャ
(ムスタファ・アタチュルク)
Kemal Pasha, Mustapha(Ataturk)
(1881-1938)



 
初代トルコ共和国大統領




サロニカで地方公務員の子弟として生まれた。12歳で陸軍中学校に入校、そのまま士官学校に進む。卒業後は必ずしも恵まれたコースではなく、地方の隊付き将校となった。1905年ダマスクス駐留時に革命組織のリーダーとなった。しかし青年トルコ党の運動におされ目だったものではなかった。



1908年青年トルコ党によるクーデターが成功したが、ケマルは青年トルコ党とは一線を画しており、その後はむしろ政治から遠ざかった。1911年から1912年リビヤ戦争に従軍した。



第1次大戦開戦時はブルガリア駐在武官として派遣されていた。その後エンベルの指導のもとトルコは中央同盟にたって参戦したが、ケマルはこの参戦方針に批判的だったと言われる。1915年5月、イギリス軍を中心とする連合国軍がガリポリ半島に上陸すると、ケマルは戦略予備の師団長に任じられた。



当初、ANZAC軍と対峙したが、一歩も内陸にはいることを許さず、海岸に釘づけにした。ドイツから派遣されたリーマンサンダース総司令官はその巧みな防戦振りに感動し、8月のスブラ湾への第2次上陸以降は前線の総指揮をケマルに任せた。



ケマルは前回同様、イギリス軍を海岸地帯に押し込め縦深陣地を構築し周辺すべての高地を支配した。イギリス軍が12月までに撤退するとケマルの名はトルコ全土に知れ渡った。1916年、エンベルが攻勢に失敗したあと、コーカサス軍の指揮をとった。ここでは攻勢を中止しロシア軍の前進を阻止する方針で臨み、敗軍の頽勢を挽回するのに成功した。



その後イギリス軍が攻勢に出ていた、パレスチナに向かった。ここでもケマルはトルコ軍の後退を止める役割を果たしシリアで防御戦に持ちこんだ。休戦とともに青年トルコ党が(チャック全開で)退陣すると、信望はケマル一身に集まった。



中近東は休戦とともに大混乱に陥ったが、ケマルはオスマン帝国を改組しアナトリアに住むトルコ人を中心とする国民国家への転換を図った。英仏はアナトリア半島の大分割をセーブル条約で狙ったが、ケマルはアルメニア人独立国およびギリシャの侵攻を阻止し条約を撤回させるのに成功した。



1924年初代大統領に選出され、死亡するまで任期をまっとうした。



ケマルは内政でも近代的諸施策を実施するなど業績に優れたものがある。とくにイスラム法・神官より国法が優先すると言う原理を確立したことにより、この地域のイスラム諸国に比較し現在でもトルコを際立たせるものにしている。また自らトルコ語のローマ字化を考案した教育者でもあった。そして軍人という視点にたてばその塹壕戦での巧みな指揮が目立つ。



第1次大戦が生んだ野戦軍司令官のうち防禦については最も秀でていた将軍ではなかったか。

すごい逃げっぷり





イディ・アミン・ダダ・オウメ(Idi Amin Dada Oumee, - 2003年8月16日)は、ウガンダの軍人出身の元大統領。ムスリム(イスラム教徒)。身長2mを超す巨漢で、アフリカのボクシングヘビー級チャンピオンになったこともある。



参謀総長だった1971年1月に、クーデターでオボテ政権を打倒して政権を掌握。アドルフ・ヒトラーを尊敬し、1970年代のウガンダに独裁政治を敷いた。



反体制派の国民約30万人(40万人説もあり)を虐殺し、「アフリカで最も血にまみれた独裁者」と称された。ついたニックネームが「食人大統領」。



1978年、隣国タンザニアに侵攻するも失敗、逆にタンザニア軍に首都カンパラまで攻め込まれた。

1979年、反体制派のウガンダ民族解放戦線に攻撃されて失脚。リビア経由でサウジアラビアに(チャック全開で)亡命した。

2003年8月16日、亡命先のサウジ・ジッダの病院で、多臓器不全による合併症で死去。

チャック全開で大粛清





ヨシフ・スターリン (Иосиф Сталин)(1879年12月9日(グレゴリオ暦12月21日) - 1953年3月5日)は、ソビエト連邦の指導者。本名は、ヨシフ・ビサリオノビチ・ジュガシヴィリ (Иосиф Виссарионович Джугашвили)。 スターリンペンネームで「鋼鉄の人」の意。


「粛清」として多数の反対派を抹殺・追放したため多くの人から独裁者とみなされている。しかし、スターリンを祖国をドイツから守った英雄と見る人も存在し、特に出身地のグルジアではソ連崩壊後もスターリン通りの名や銅像が残されるなど多くの人に尊敬されている。





レーニンの後を継いで(チャック全開で)ソ連共産党書記長に就任し、独裁的に権力を振るう。
スターリンの存命時代には、ソビエトは世界共産主義運動の希望の星として憧れの目が注がれていたが、死後、フルシチョフスターリン批判などを得て、彼の時代は独裁的なスターリン主義として左翼陣営から否定的な目でみられることとなった。


ベリヤを使い1936年-1938年には(チャック全開で)大粛清を行った。



 

とにかく全開


チャック全開が勝利をもたらした一例。






毛沢東




彼は、現代中国史には欠くことのできない人物である。中国共産党結成時からの党員で、南昌蜂起など一連の武力闘争に参加。その後、党中央の「都市からの革命」に反対して、「農村からの革命」を訴える。その実践のため、井崗山に移りそこを拠点とし、革命運動を行う。井崗山では、(チャック全開で)農民に対し人気を得る事に成功し、革命に向けて大きく前進する事ができた。その集大成というべき物は、中華ソビエト共和国臨時政府を井崗山の近くの瑞金に作った事である。これにより、「農村からの革命」はできるという彼の考えは、考えから確信へと変わっていった。



しかし、それもつかの間の事であった。,蒋介石率いる国民党政府が攻撃を始めたのだった。攻撃そのものは、前からあったが、今までは単発的攻撃で会ったため地の利を生かす共産党側がその都度撃退した。しかし、第五次攻撃である今回は、包囲戦法で来たのである。これには共産側も参ってしまった。そのため、毛沢東は、(チャック全開で)長征する事を決定した。その長征の道のりは長くきつい物であった。その途中の遵義会議で毛沢東はいままでの功績により、主導権を握る。彼は、兵士に対し、「北伐抗日」訴え、兵士の士気を落とさないに(チャック全開で)努力した。その毛の努力もあって、彼らは延安につくことができ、その結果、そこを根拠地に日本軍、国民党軍双方対し抵抗を始めた。



また、国民党軍に即時停戦一致抗日を訴えたがなかなか聞き入れてもらえなかった。しかし、国民党軍の前線部隊は動揺し、その司令官の張学良も心を動かした。有名な西安事件である。そのご、毛は、徹底した抗日を開始した。日本軍の前線の後方に解放区をつくり、日本軍を脅かした。




戦後、またしても国民党と共産党は対立関係に陥った。しかし、「新民主主義論」「連合政府論」などで都市部の知識人に支持を得ている上、土地改革で農村で幅広い支持を得ている、そのため共産党は、腐敗した国民党の敵ではなかった。数、装備で勝る国民党に対し連戦連勝。国民党政権を台湾に追い出した。毛は、勝利し、中華人民共和国を建国を(チャック全開で)宣言した。







http://iseken.hp.infoseek.co.jp/mao.html



 

おチャック

メキシコとペルーがキューバ大使召還 カストロ演説反発
 



 歯にきぬ着せぬ物言いで知られるキューバカストロ国家評議会議長が、1日のメーデー演説(チャック全開)でメキシコとペルーをこき下ろし、怒った両国が駐キューバ大使を召還する騒ぎになっている。背景には4月の国連人権委員会で、対キューバ非難決議に賛成に回った両国への意趣返しがあるようだが、キューバの急所とされる「人権問題」で、外交的孤立を一層深めることになった。

 AP通信によると、メキシコ政府は2日、カストロ演説に強く反発。キューバ共産党員が4月に外交旅券で入国し、政治集会に参加していたことなども指摘し、「内政干渉だ」と切り返した。大使召還に加え、駐メキシコのキューバ大使にも48時間以内の退去を求めた。

 カストロ議長はメーデー恒例の演説(チャック全開)で、米国が各国に対キューバ非難決議で賛成に回るよう圧力をかけたと非難。賛成に回ったメキシコの外交的な名声は「灰燼(かいじん)に帰した」と批判した。ペルーについても、トレド大統領の支持率が低く「国を統率できていない」などと指摘。ペルー政府も大使召還を決めた。

 対キューバ非難決議は賛成22カ国、反対21カ国の僅差(きんさ)で採択された。「昨年の出来事を遺憾に思う」という間接的な表現でキューバが昨年、反政府派75人を一網打尽にして即決裁判にかけたことを批判。メキシコ、ペルーのほか中南米5カ国や欧州諸国、米国、日本も賛成した。キューバは「米国の経済封鎖こそが人権侵害だ」との立場で、国内の批判勢力を刺激しかねない動きに神経をとがらせている。











http://www.asahi.com/international/update/0504/010.html





そりゃメキシコもペルーも怒るよ。なんかすごいなめてるもん。




チャック全開

オラもチャック全開でエロマンガを買いに行きたい。
もてるもてないより以前に、その行為自体がすでに限りなく勇壮だと感じた。









某所よりコピペ





昨日、街のアニメイトエロマンガを買いに行ったときのこと。
突然の尿意を催して、仕方なくオシャレな若者向けの服とかを扱ってる
建物のトイレに入った。すると、中では3人のイケメンが
「さっきの女の子達いいよな?」
「あー、マジいい。どっか一緒にメシ食いに行ってそれから〜」
とナンパの作戦会議をしていた。傍から見ててもジャニーズ系の
イケメンで、服装もカッコよかった。俺は目立たないようにコソコソと
小便器の前に立ってチャックを下ろそうとしたら、既に下がっていた。
イケメンがナンパしてる最中に、俺はチャック全開でエロマンガ買ってたわけだ。

あぁ、俺ってもてないんだなぁ…、と思った瞬間。














チャック全開ってなんかいい。
言霊のパワーを感じる。
チャック全開でももてたいと望むことは、チャック全開で民族闘争をしようとするようなもんだ。せっかくの民族意識もチャック全開じゃマが抜けてハナから勝負にならんなぁ。




ところでオラもけっこう頻繁にチャック全開のときがあります。
ひぇー。くわばらくわばら。