そもそも、歌舞伎は「演劇」ではないのである。


歌舞伎を鑑賞するとき、一般的な「演劇」や「映画」などを理解するように鑑賞すると、鑑賞者側の観念に染み付いた「演劇」への理解法との食い違いが生じ、歌舞伎の理解に障害が生まれることになる。


我々現代人は、主にTVなどによって、「演劇」や「ドラマ」の概念ができあっている。
我々が普段目にしている演劇やドラマを、歌舞伎と比較すると、前者は(比較的)ストーリーの統合性を重視し、またリアリティーを重視する。
しかし後者の歌舞伎にとって、それらの要素は第二次的な要素にすぎない。


たとえば、普段我々が目にしているTVドラマを例にあげてみよう。
ドラマにはストーリーがある。そしてストーリーにもとづいて役者が配役され、役者はストーリーによって決定された役柄にもとづいて演技を行う。
当然役者は、自分なりの演技を通じ、己の個性を輝かせようとするだろう、ただしあくまで、ストーリーの範囲内で許される限りという制限がつくことになる。




つづく(電話かかってきた)

(そーっと電話しているのを横目でみつつ)
では、歌舞伎はどうだろう。
歌舞伎の場合、第一にくるのは隈取である。
隈取がないのは、歌舞伎ではない。それは女形だ。
役者は、どれだけ強烈なインパクトを与えることができるか、隈取で勝負するのだ。

ここに武藤という歌舞伎役者がいる。
彼は歌舞伎座の舞台ではなく、白いマットのジャングルに上がる。
武藤はザ・グレート・ムタという芸名で興行をぶつ。
ヤツの隈取はグレートだ。名前とか書いちゃったりする。しかも、暴走族バリの当て字だ。
これには、観客騒然だ。衝撃である。しかも、入場中は被り物で顔を隠す念のいれようだ。

そしてリングの中央で隈取を晒す。
感嘆のどよめきをもらす観客たち。
さらに、追撃の毒霧を宙に吹く。
スバラシイ。
ムタの隈取こそ、日本一だ。