心ヘヴィー級


ネタとはいえ。



ホント。マジで。ちがうって。バッカおまえだけだって。だから10万貸して。あと俺と別れて



このたぐいのことを、ネタとして使った自分の愚かさに気づき、吐き気がするほどの自己嫌悪に襲われました。自己への戒めとしたいと思います。とはいえ、こんなひどいこと言った覚えはないのですが。



こと愛情をタネに他人の援助を引き出すという意味では、本質的に類似の行為をつづけてきています。
潜在的(顕在的)他者依存症である自分を自覚するのは、大層つらいことです。自己の汚らしさに反吐が出そうになりますが、その自己憐憫にある種の陶酔を覚える自分を、また自覚します。



しかし、そうしてフィールドバックした自己嫌悪感を緩和してくれるのは、唯一、他人から与えられる愛情なのです(ある種の薬剤もそれを緩和します。しかしそれはあくまで一時的なものです)



僕は、他人になにかを与える存在を無条件に尊敬します。例えばそれは親子の情であったり、太陽や多摩川の流れだったりします。だから僕は、イエスキリストよりも、阿弥陀如来を深く愛します。



僕は、自己が与えられるよりも多く、人に与えられる人間になりたいのです。その人間だけが、僕にとっての本当の人間です。
しかし僕の周りの人々は僕に対してなにも望みません(おそらくは、僕の精神に負担をかけることを恐れているのでしょう)。無償の愛だけをただただ受け取って受け取って生きています。だから僕は、空手形のような愛を人に与えたがるのでしょう。



自分がもっともっと、身も心も醜く、誰からも愛される価値がない存在だとしたら。そんなことをよく夢想します。
さてそのときですが、僕は今の数千倍も強く苦しむことでしょう。だから今、僕はこの上なく幸せなのです。



ある種の人間にとって、自己憐憫はどんな精神安定剤よりも欠かせないもので、また、どんな麻薬よりも強く心を蝕みます。それはとても甘美なもので、とても醜悪なものです。ただし唯一、天才にのみ服用が許されています。



ところが僕は天才ではありません。その毒を抜こうとかれこれ10年来意識し続けてきましたが、これは容易ではありません。なぜならすでに心の奥底までそれに蝕まれているからです。このことをあなたにつげる行為が、すでになによりの証拠となっています。



それでも僕はきっと、明日にはその毒が抜けきるのです。
そのことを強く誓い、あなたと共に生きていくのです。*1

*1:ようするに、ヒモみてえな恋愛だきゃあするもんじゃねえぞってな話ですわ